2000年、昭和シェル石油CAR GRAPHICマイレッジマラソン参戦記

去る10月28日、29日鈴鹿サーキットに於いて第20回昭和シェル石油CAR GRAPHICマイレッジマラソンが開催されました。

チームエスプリ ド フェルミエも例年どおりエントリーしました。今回で現在の形の省エネレースはいったん打ち切りとする、との発表があり、我々としても3年前から開発を続けてきた新車(5号車)を、どうしても間に合わせなければ走る機会を失ってしまうとの思いから、毎晩深夜にまで製作に取り組んできました。

吉見農園の従業員の息子さん(大学院生)からやってみたい、との申し入れがあり同級生を集めて2号車を改造して参加することになりました。

現在最も安定している(ここ数年ノートラブルで完走している)3号車も走らせようと言うことになり、結局新車(5号車)と併せて3台エントリーしました。

新車は遅くとも8月中にはテストランしなくては、と思っていたのに結局出来上がったのは予選の日の朝3時過ぎでした。4時半には出発の予定でしたので、マシンや道具を積み込んで、家に帰って風呂に入って着替えただけで、寝る間はありませんでした。

2号車の改造も意外に手間取り、やはり当日の朝までかかって若い人達も寝ることはできませんでした。

5号車の送れた理由はいくつかありますが、大きな理由は小さく作りすぎてドライバーが入らなかったことと、セルモーターでした。

もちろん、ドライバーに合わせて型を作ったのですが、どうしても収まらずに胴体をまん中で輪切りにして5cm継ぎ足しました。それでも収まらずにノーズを3cmほど引き伸ばしました。最終的にそれでも収まらずに全高も3cmほど上げました。

少しでも小さく収まるようにとヘルメットもSを取り寄せたのですが、これが内側はMより小さいのですが、本体は同じ部品を使ってあんこ(発泡スチロールの部分)を厚くしてなかをSサイズとしたらしく、ヘルメットをかぶった状態ではSの方が1cmくらい高くなってしまいました。

全体のバランスは若干崩れてしまいましたが、全長は目標の2m以下に収まり、我々の見た範囲では(あまり他のチームを観察する余裕は無かったのですが)今大会で一番小さかったのではないかと思います??

セルモーターに付いては最初から最大の難関だろうと思っていました。まともな道具を持たない我々には、ギアを自作することはもちろん、何かののギアを流用して精密にきちっと組み立てることは到底出来ないので、多少の狂いはごまかせるチェーンで駆動することにしました。しかし、チェーン1段では十分な減速が出来ないので充電式電動ドリルのモーターと減速ギアを使うことになりました。

モーターが回るとエンジンとつながって、エンジンが回ると切り離される部分の加工にもずいぶん苦労したのですが、こちらは何とかうまく作動するようになりました。しかし、電動ドリルの減速ギアは致命傷となりました。

新車のドライバーは1週間前の日曜日、近くの神社で数メートル走っただけでギアが壊れ、まったくテストも練習も出来ませんでした。この時点では、ボディもまだ出来ていませんでした。出来上がったボディにドライバーが納まったのは予選の日の朝でした。

兎にも角にも形だけは何とか出来上がって28日の予選に望みました。

マシンの小ささと軽さをアッピールするために、一人で肩に担いで運びました。車重は20kg以下が目標でしたが、最後の頃に慌ててばたばたとボディを手直ししたために余分な重量がかさんだことと、充電ドライバーのニッカドバッテリーを使う予定が、テストに使っていたちょっと大き目の鉛バッテリーを使ったため、整備重量で20kg500と500gオーバーしてしまいました。が、もちろん十分一人りで担げる大きさと、重さです。

色々不手際があって、サーキットにつくのが遅れたため、慌てて車検の列に5号車を並べゼッケンを張ったのですが、間違えて3号車のゼッケンを張ってしまいました。そこへオフィシャルの方が来て5号車を色々チェックしてメモをしていきました・・・・・・???

車検はすんなりパスしたのですが、やはり、セルにトラブルが発生してなかなか予選のスタートにいけません。

結局、何とかスタートできて、お情けで予選は通してもらったのですが、セルの電動ドライバーのギアが掛けてしまいました。

2号車、3号車も若干バタバタしたものの無事予選を通過しました。

決勝の朝、近くのホームセンターで電動ドリルを買ってきてギアを取り替えました。

ギアにかかる負荷を軽減するように少し工夫をして、ピットの前で始動のチェックと発進テストをしました。

上り坂でも何とか発進できて、これならいけそうだ、と思ったとき、又ギアが噛んで動かなくなりました。

後で知ったのですが、実はこのときNHKのカメラが撮影していたようで、この日の午後6時台と、9時台のニュースで放送されたそうです。

10年くらい前にも、私が運転していたときにダンロップの坂が登れなくて(体重が73kgくらいあります)マシンから降りてエンジンをいじっているときにズームイン朝のカメラが来て翌日放送されました。
私のはげ頭が人目を引くのでしょうか!?

結局その時は坂が登れずリタイアしたのですが、やはり今回もギアが欠けていてエンジンがかけられず、残念ながらリタイアとなりました。

新車に手を取られて、3号車にろくに手をかけることも出来ずに整備不良だったのか、エンジンのパワーが落ちてきて8週目の(最後の週)最後に又、ダンロップの坂で止まってしまいました。ドライバーは何度もエンジンをかけなおしたのですが、7%もある急な坂ではなかなか発進できず、大幅なタイムロスとなってしまいました。何度もトライしてとうとう坂を登りきってゴールしたのですが、タイムオーバーでNGとなってしまいました。

若い人たちの2号車は、古いバッテリーに若干の不安はあったものの容量的には十分な余裕があるはずと、そのままスタートした所,

途中でバッテリーエンコでリタイアとなってしまいました。

最後の大会となった今年のマイレッジは、我々にとって最悪の結果となりました。

第3回から参加して、途中親父が死んだ年から3年休んだけれど、トータルで15回参加して複数エントリーして1台も完走できなかったのは初めてでした。

しかし、なぜかすっきりした気持ちです。新車はスタートすることすら出来なかったけれど一応形としては出来上がったし、結果が出せないことにはこの18年間で慣れてしまった。最後に大勢で参加して十分楽しめたし、いろんな経験ができました。

私がはじめて完走したときゴールでニコニコしてヘルメットを受け取ってくれた次男が1昨年は自分で運転して今度は私がヘルメットを受け取ることが出来ました。2人の息子はともに9月生まれなので15歳になった直後に参加でき、長男は最年少と言うことで選手宣誓もさせて頂きました。

台風が来たり、あられが降ったり、鈴鹿サーキットの駐車場でトラックの荷台で寝袋に包まって寝たこともありました。

吉見農園にとって毎年あたりまえの年中行事になっていたこのマイレッジが、来年からなくなってしまうなんて信じられない気もちです。

今度の新車は5台目ということもあり、とことんこだわってじっくり作っていこうと思っていたのに・・・

でももうマイレッジは終わってしまいました。

年内は全て忘れて大幅に遅れた仕事に専念しようと思います。

エスプリ ド フェルミエ 百姓の心意気を示そうと付けた名前ですが、ずっと意気込みだけが空回りしていた気がします。

しかし、チームが消滅したわけではありません。そのうちまた、虫がもぞもぞ騒ぎ出すでしょう。

それまで一時お休みです・・・

最後に、これまでずっとチームを支えてくれた太田正幸さん、三浦寛一君、3年も待たせて結局走らせてあげることが出来なかった5号車ドライバーの杉本典子さん、今大会を盛り上げてくれた牧野さんご一家、学生グループの大西君、野々山君、江本君、黒柳君、牧野君、これまでいろいろお世話になった多くの皆さん、そして私たちに夢を与えてくれた大会実行委員の皆さんに、心より御礼申し上げます。

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